211223

aikoの『青空』を聴いている。

恥ずかしながら、aikoの曲で知ってるといえばカブトムシくらいで、ニワカとすらも名乗れないほどだが、この『青空』という曲はとても好きだ。

雑にまとめると離婚した女性を歌った曲なのだが、aikoの言葉というのは実に特別だなと感じる。

誰かのブログで「aikoは特別性をもって恋/愛を切り取る」とあったが、まさにその通りだと思う。

この曲の歌詞の白眉は

「そっと薬指を縛る 約束を外しても ほどいて無くしても」

「まだ気をつけて服を脱ぐこのクセは」

「なかなか抜けないな」

だと思う。

自らの身体に刻みこまれた所作により、愛の喪失を再認識する。

この表現の美しさといったらない。

音楽も、初っ端はキラキラキラと明るいスタートを切り、全体としても青空を思わせるようなポップな曲調だが、間奏のシンセがどことなく悲しみを滲ませるような音色だ。

自分がどれだけ喪失感に駆られても、悲しみに暮れて涙を流しても、世界は全く意に介さずに青空を見せてくる。

その皮肉っぽさが歌詞にも音楽にも表れている。

光があれば必ず影ができる。暗く落ち込む様を、影ではなく光で表現するのが見事で、初めて聴いた時に純粋に食らってしまった。

 

211111

例によって通学の電車でTwitterをいじっていると、「彩度を爆上げした紅葉の写真」が取り沙汰されているのをみた。身近に絵と写真を生業にしようとしている人間がいるからか、なかなか考えこんでしまう話題だ。

宣材写真に過度な加工を施すことの是非は傍に置いて、そもそも「自分が見た世界」を真の姿だとすることの無効感は持っておくべきだと思うし、まして自分と他人が同じように世界を見ていると考えるべきでもない。彩度爆上げ写真を虚と決め込み、その撮影者が見た世界が加工された写真その通りであった可能性を思案できないようでは、表現者にはなれないと思ってしまう。その「加工」に、19世紀前半からの写真時代で絵が生き残った理由があるはずだから。

 

210924

ふと、中学生の頃を思い出した。PS3ガンダムのゲームをやっていた時に、メッセージをやりとりしていた人がいた。当時俺が13歳で、相手が17歳だった。(恐らく)彼が本当に俺の4つ上ならば、24,25だろうか。顔も名前も知らない相手を想うことは、不思議な感覚である。

ネット世代の俺たちには、「知り合って数年経つ顔も名前も知らない人」が当たり前に存在する。下手したら地元の友達より頻繁にコミュニケーションをとる仲だったりもする。どれだけ同じ時間を過ごし、多くを語りあっても、相手の顔は知らない。「百聞は一見に如かず」というが、見る/会うこと固有の力が、コロナ禍の今、身に沁みて感じる。